生き残ってしまった罪悪感

戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感をサバイバーズ・ギルトと言います。

生き残ってしまった

という罪悪感のこと。

ナチスによるホロコーストを生き延びた人々などに見られたケースが有名なのですが、日本においては災害が多いことから、3、11の東日本大震災による津波で生き残った人々、過日の通学バスを襲撃された事件の生存者たちなど、近年だけでも、あげればかなりたくさんの様々な災害、事故、事件があります。もっと個人的な家族や近親者、愛情関係の中の生死を分けるようなこともあり、自覚がない人も多いのです。

どうして死ぬのが私じゃなかったんだろう

という感覚。罪悪感。あの人の方が生きている価値があったのに。などなど。いろんな感情になります。

 

私は、生まれた時からサバイバーズ・ギルトがあり、ほとんど無自覚だったはずなのに、この感覚がおかしなことに強くあり、強烈に「生きなければ」という衝動と「どうして私が生きてよいのだろう」という感覚が同居していた。私の兄は、生まれつき四肢に障害があり、心臓にも障害があり、長くは生きられないと宣告されたにも関わらず、命を全うする前に手にかけられたのです。私が生まれる前のこと。カウンセラーになる直前まで、その真相を知らなかったにも関わらず、その感覚は、強烈にあった。兄は生きることを赦されず、私は生きることを切望されたという感覚でした。自分が選ばれたなどという祝福されたような感覚ではなく、私にとって、それは絶望に似た感覚。生きることとは、なんて絶望的なのだろうという感覚と、同時に、生きることはなんて素晴らしいのだろうという感覚が常に同居していた。私自身、そして、妹や弟も、強烈な虐待を受けてきたけど、生き残った。虐待を受けても自分が死ななかったことは、絶望的なことであり、同時に希望でもあった。今もその感覚がある。その後も、いろんなことがあり、残酷にも「生き残ってしまった」という体験を重ねた。3.11も、もちろんその大きなひとつの出来事だった。

生きているというその絶望的な寂しさみたいな、宇宙に取り残されたみたいな感覚と、生きられることの強烈な希望と表現するにあまりにも足りない感覚。だからといって、死にたい訳じゃない。私は死にたいと思ったことがなかった。どんなに辛くても、生きられることの奇跡というか、自分でどうこうすることを遥かに越えているこの事実に抗うことができなかった。一択で、生きられる間は生きる。生き抜く。そんな覚悟みたいな感覚が私の身体中をめぐっているのだ。まるで血のように。

そのおかげで、私は、こうして生きられるように思う。

せっかく生きているのだから

そんな風に思えるのは本当に有り難いことだ。だから人生にフォーカスできるのだもの。誰かのためになりたいという祈りのような気持ちが満ち続けるのも、私が善人なのではなく、サバイバーズ・ギルトのお陰だとも思える。人生で起ることに立ち向かえるのも、感動が常に新鮮なのも、そのお陰だと思える。

亡くなった方の想いを受け取ることもある。様々な存在からもそう。私はミディアムだから。どうして、私に伝えてくるの?と思うことも多々あったけれど、あるけれど、それを私が受け取れるのも、私のためなのかもしれない。どんなに酷いシチュエーションでも、そこには、すべて違うカタチの想いがあるんだと。それを私自身が理解するために。それでも、胸は痛むけど、その痛みはサバイバーズ・ギルトのように、私のためなのだとも思えるようになってきた。人生の様々な場面で、私のところへ来てくださる方へ、私から伝えられることがあるのだから。それは私の喜びと重なる。

生きている罪悪感があっても、生きていける。生きていい。
その罪悪感には、いろんな想いがあるものの、行き着くところ、
すべての存在への愛だから。

あなたは愛そのもの。

私自身にも、そういう感覚を抱えている人にも、寄り添っていきたい。

私の命の限り。

 

 

 

 

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