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「自分が願ったことは全て叶った」と自覚したのは、いつだったのだろう。
自分の感覚としては願ってもないような夢が叶ったという感覚だ。
愛し合って体を重ねること。
愛する人と共に生きること。
子どもを産み育てること。
夢だったカウンセラーになること。
それらは考えるのも憚られるような夢だったはずなのに。

こんなに叶い尽くしたのに、なぜまだ生きているのだろう?
と不思議な感覚の中にいたのは、そうだ。東日本大震災の最大余震の翌日4月9日に初孫が生まれた時だった。
自分が何の努力もしないで与えられたギフトでしかない。
それは初めての感覚だったのかもしれない。そして、それは静かなお知らせだったように気づくのは、ずっと後のこと。

東日本大震災は、リセットボタンを押されたような感覚だった。
開業して7年。試行錯誤の中でも、蒔かれた種が育ち、循環が生まれ始めていた矢先だった。
私が人生をかけて全力で創ってきたことにどんな意味があったのだろうか。
これから続けていくのか。
続けるのなら何をどうしていくのか。
それとも、別の道を行くのか。

そんな中、初孫が生まれ、自分の意志だけではない領域で何かが生まれ、もたらされるという感覚を感じながら、思考は、この状況の中で自分は次のステップで何を選択するかでいっぱいだった。
今思えば、この頃からすでに今までとは違う世界に突入していた。とにかく「導かれてきた」としか言えないことが頻発し始めた。今までだって、きっとそうだったのかもしれない。でも、「自分がこうしたから」など因果関係を考えてしまう。顕在意識は自分の選択や努力にフォーカスしていたから気づけることが少なかった。実際は起こっていたのに。

ところが自分の意識がそういった「自力」にフォーカスしていても、それを凌駕するほどの導きが頻発し始めたのだ。事は、ほとんど、考えてもいない方向からやってきた。何の脈絡もなく、突然、降って湧いたように仕事の話が来たりした。あれよあれよという間に活動拠点が広がった。全ての可能性に開かれていることを示されるように。それでも、行くべき道ではない時も導きがきた。進む時、止まる時、やめる時、自分の直感に明確に示された。「これはここまで進んで、終わり。次(別な道)に行く。」「これは終わりで、これを始める。」。そして極め付けは「止まれ」。止まれは、私の場合は、方向転換の時。「そっちじゃない。こちらへ進め。」なのだけど、これが一番抵抗が強かった。止まることに抵抗があったのだ。でも、導きは諦めないのだ。どんなに言うことを無視しても、逆をしても、見放されることはない。この導きは、明確に最高に願っている方向に働いている。どんなことが起きたとしても、それは最高の方向に働いているということを忘れてはいけないと今でもしばしば確認する。

その状態はコントロール不能の世界。コントロール不能なのに、起こってみると全然怖くない。むしろ、素晴らしくて震える。それは夢が叶うとか、願望達成とか、そういう感覚とは全く違うチャンネルだと感じる。起こることは起こり、起こるままにする。自分のしたいこと、情熱の感じることが思う存分、愉しむ。

その完全にコントロール不能を受け入れたのが、2016年。私が「止まれ」をスルーしたからだと思っていたけど、それはそうとも言えるけど、関係ないのかもしれない。順調に行っていた事業の一部を手放すことに決めたことを発端に、人生二度目のリセットボタン発動。それが「止まれ」なのだきっと。順調に行っていた事業を辞めるなんて、その後のことが見えるようなものだけど、その時は、そうしなければ先へ進めない衝動が胸の中に渦巻いていて、決めた時は爽快だった。
気分は爽快だったものの、現実は大変で、経営を続けていくか、廃業するか、今後、生まれ変わった気持ちで何をするか考えた。

会社を残すために、家を残すために、いろんなアイディアや方法があることを聞いたけど、どれもしっくりこなかった。人生をかけてやってきたからこそ、潔く自分の限界を認めたいと思った。家も手放し、会社も倒産。財産全て無くなった。それでも、導きは続いている。「進め。」と。私はこの仕事を辞めたい理由が一つも見つからなかった。辞める必要がないと感じながら、先の見えないミステリーツアーに突き進んだ。

どこへ進むのかと思うけど、自分の知らない世界へ進めと促される。「そんなこと赦されるのだろうか。」という思考が自分に襲いかかる。自分は失敗した人間なのにと自分を責めていて気づくのは、導きを邪魔するのは、自分しかいないということだった。
自分を責めていてもお構いなしに導きは続く。自分の思考を凌駕するパワーがある。すでに導きに従っているのだから。思考はごちゃごちゃ言うけど、肚は決まっている。自分を責めている自分より、肚が据わっている自分が中心にいる。いろんなことを受け入れている自分だ。
その自分は「情熱に従って、導きを受け取ればいい」と言う。
つまりコントロール不能。
受け取っていく。
起こるままにする。

その結果は、あれよあれよという間に、手放した事業が最高の形でできるようになったことで始まった。
全てを手放してからスタートするまで、数ヶ月のこと。
半年さえ経っていなかった。

そして、ますますアンコントロールなことは続く。
もたらされることに感謝して味わうことに意識を向けるよう導かれてきて今がある。とにかくもたらされるのだ。ギフトがやってくる。恐れより、罪悪感より、感謝が増えていく。

私はどうしても、自分から仕掛けていく自力!信者だったから、この神様からのギフト攻撃(?)は、修行だった。
私が受け取っていいのですか?と。
いい悪いの話じゃないのだと。
許可は、自分が出すだけだと気づかされる。

でも、そんなことを続けていると、恐ろしいことに、導きやギフトが絶え間なくあることに圧倒される。気づいていなかった時期、ずっと過去のことも、そうだったのだということにドミノ倒しのように気づいていく。

その感覚に近づくために私にとって役立ったのは、自己を知ること、自己認識。自分がどんな思考を持っていて、どんな制限を持っていて、どんな脚本を持っているのか、どんな信念を持っているのか。
知って、ああ、そうか。と納得して(受け取って)手放す。自由にする。
自分の内なる声(インナーチャイルド)のボリュームをあげる。耳を傾ける。これは導きを感じるのに通ずる。

これまでも、私自身の人生、そして、クライアントさんたちの人生で気づきを生かしてきたけど、このコントロールできない世界でノーリミットの旅をガイドできたら愉しい。静かにワクワクする。この最高の導きを生きようと心から思うのだ。

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