魔女スクール卒業生の論文をシェアします。
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最後の魔女スクールが終わった翌々日。
朝食後にお茶を飲みながら母と何げなく話していた時に、思いがけず結婚相手とのパートナーシップの話になりました。
『そうはいっても、ひとそれぞれ性格があるから』
『みんなあなたのようにはなれない。』
深い話になるといつも母は、そう言って話を遮ろうとしました。
(どんな人だって必ず思ったように生きられる)
そう言う私の話を聞きたくない、早く話を終わりにしたい、という態度だったのです。
それが、母の口から出た言葉にびっくりしました。
『なんだか、さいきん肩の荷が下りた。私は、もしパパと離婚しても大丈夫だと思う』
私が、ママは今パパとほんとうに離婚したいの?と聞くと、母は、
『実際に行動を起こしたり、現実に離婚しようとしているわけじゃないよ。でも、わたしは、たとえパパと別れても幸せに生きられると思う。』
あの、ママが。
なにか私にとって深刻で重要な話をしようとすると、「私じゃわからないから、パパに聞いて。」と話を遮り、深い部分での関わり合いを避け、私の目には強い父に人生の大切な部分を委ねきっているように見えた母がそんなことを言うなんて。
ママは、自分で歩く、ということができない人間なんだ。ママは一人で考えて決断する、
ということができない人なんだ。だから、わたしはその分も、ひとりで前進しなくちゃいけない。
ずっとそれを無意識に呪文のように唱えながら生きてきて、ひとりで突き進んできた私。
いつも深い部分では寂しくて、悲しい気持ちを持っていたように思います。
今までの人生の大半を、母の人生の分も過剰に請け負って生きてきたことがその時にはっきりわかったのです。
でも、もう必要ないんだ。ママは、自分の人生を生きられるようになったんだ。
(私はママからその言葉をずっと聞きたくてがんばってきたんだ。)
そう思うとしばらく放心状態になるほど力が抜けて、空っぽになるのを感じました。
魔女スクールで扱った「他者との境界線」の問題。過剰に他人の人生の責任を取ろうとして苦しむこと。どうあがいてもどうにもならないと諦めていたことが、こんなに魔法が解けたようになってしまうなんて。
(もういいよ。もうあなたは、痛みを感じているのに前進しようとしなくてもいい。お母さんは、自分で進める。)
そういう声が聞こえてきて、一人で泣きました。
祖母から母、私へと続いてきた家の連鎖。
あまりに苦しかったから、真逆の生き方をしようと思った。それが、いつも私の人生を推し進めてきたけど、もうほんとうに歌うように楽しく生きていいんだ、わたしは今まで本当によくやった、と心の中で自分を抱きしめました。
私個人の魂が望んでいることと、家族のカルマの完全な一致。
とことん自分を濃厚に、そして軽やかに生きていくこと。
これからも、まだ人生は続いていくけど、年をとればとるほどこんな風に軽やかになっていけるなら、私はまだまだ生きている甲斐がある。そう強く思いました。
私は、もっともっと人から手を放していきたいです。(それは一見無責任にも思えるほどに)
そして、そのたびにもっともっと人間を信じていきたいです。
クラスメートのSさん、出会ってくれて本当にありがとう。そして、朝水先生、本当にありがとうございました。
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言葉にならない感動を覚えます。
どれだけ彼女が体当たりで頑張ってきたことか。
無意識的なテーマや家族の連鎖、魂のカルマのようなものだと言葉にするのは容易ですが
それに気づき、解放するのは気の遠くなるようなことなのです。
誰もが薄々気づいていても手をつけたくない領域。そうやって家族の連鎖は続き、良かれという思いがいつか呪いのように一族を縛ってしまう。
彼女は、最後にこの講座のことを「癒された」という言葉で表現してくれました。
この曖昧な色を持ち、それでいて明快でもある「癒し」を感じられたことは、彼女の中で自分をまた深く愛し、「愛」という目に見えないけれど、確かにあるそれに触れたことを表しているのではないかと胸が熱くなった。
スポンジが水を吸うように、多くのことを貪欲に能動的に学ぶ姿勢は圧巻の一言に尽きます。
自分の人生に懸命に向かう人は、本当に美しい。
軽やかに生きる。
多くの人が望むそれを、彼女は彼女らしく体現すると思う。
そしてそれは彼女だけではなく、彼女の周りへと大きく波紋のように広がる。
魔法は自分の中で起こり、それが広がっていくもの。
共鳴するエリアへと向かっていく。