0 0
Read Time:1 Minute, 22 Second

最近、「ますますパワフルになりましたね」と言われることが増えた。

自分としてはあまり自覚はない。

先月のメールオラクルは、それが如実に出ていたようで、初めての方より、私を知っている人の方が衝撃が大きかった模様。

オラクルなのに、めちゃ!現実的!

と言われたけど、普段の私の特徴そのまんま。

「現実」と「意識」「マインド」「全体性(霊性)」は、全部、切っては切れないもの。

その統合を助けることができるように、自分自身の人生で氣づきを最も大切にするという実践をしている。

自分でやっていないことを人に勧めることはできない性分なのだ。

 

自分の氣づきを最も大切にするというのは、心の声を聴いて、それを最大限に実行するということでもある。

時にというか、頻繁にそれは、無謀なこと、無茶なこと、非効率のこと、破壊的なこと、クレイジーなことに見える側面があるだろう。

心の声を聴いて生きること、進みすぎているというのは、最高にアホだということでもあると自覚している。

 

自分が勝手に信じている「真実」みたいなもので、おかしなそれ(観念・信念)を見つけること。

それは、見つけないと芽が出ない種のようなもの。

だから私は、手放すということは、受け容れることだよ、とよく言う。

 

メールオラクルで「自分はすごく浅いところで、すねていました」という言葉をいただいた。

それは、現実的に「こうなりたい」と描いていたものが、すごく遠いところに居ると思っていることを現す。

「現実化しそうもない」という真実を握りしめていて、

「すごく遠いところでなら夢を語ってもいいよね、描いてもいいよね。」なんて自分をごまかしている。

だからモヤモヤする。

 

 

飛び込んで行く。

状況や場所だけじゃなく、もっと、もっと、人に入っていく。

人に入って行くには、心をひらかないとだめ。

鎧をつけて入って行って、「鎧があるから、このくらいしか近づけない」なんて言い訳しないように。

この鎧の意味を重厚にしている場合ではない。

今はタイミングじゃないから、なんて言っていたら、一生それは来ない。

何か氣づいたなら、タイミングは今。

しかも、そのペースは、しっかり自分でとっていけるから大丈夫なのだから。

始めることが大事。

そう飛び込むことが大事なのだ。

彼女は、それを受け容れたからこそ、その言葉が出た。

そうすると最もふさわしい場所に自分を連れて行くだろう。

 

 

私も度々、もっと賢く、リスクを取らずにできたのではないか、と反省することがある。

多々ある。

では、その賢く、リスクを取らずにやって、今があるか

と考えると、それはない。

それがどんなに愚かであっても、リスキーだったとしても、

「今」を観た時に心の中で頷けるのなら、それこそが光なのだ。

どうして「アレ」が「コレ」につながると想像できただろうか。

まったく想像もつかなかった。

だけど、今、ここにいる。

 

自分の情熱に従う、自分の声に従うなんて、

大バカ者で、アホにもほどがあるのかもしれないけど

それがもはや神の声にしか聴こえない。

それを選ばないのなら、今、私として生きている喜びはあるのかと思ってしまう。

 

人並みにそれに迷いを感じることもあるけれど、それはほとんどすぐで消えてしまう。

消えるけど、また出てくる。

出てきても、消える。

その繰り返しの中で、自分の中の真実が何なのか、何を大切にしたいのかが見える。

シンプルにそれを選ぶ。

飛び込む!

いろんなことが起る。

気に入ることは夢中になり、気に入らないことがあったとしたら、自分の気に入らない真実もどきを見つけて受け入れて、手放す。

可能性を生きる。

なんと無謀で、なんと愉しいことか。

その中で、必然的に出逢い、共鳴し、何かが生まれるのだ。

 

自分の夢を遠くから傍観するのではなく、この肉体で少しでも近づく。

できることは、できる限り、すぐに着手する。

これだけの選択肢が用意されているのだから、悩むならやってみることをおススメする。

やってみれば、その時点での何らかの自分のための答えが現れる。

シュミレーションでは、絶対に知り得ないことが現れるのだ。

私たちは、シュミレーションをするために生まれてきたのではない。

体験するために生まれてきたのだから。

そこで体験する様々なありとあらゆる感情もまた、重要なピースである。

感情を体験しないなんて、わずか数ピースのパズルで一生遊んでいなさいと言っているようなものだ。

数ピースのパズルだけで生きていれば、傷つかなくていい。

同じ遊びを繰り返し、同じ結果に安心したいのなら。

そして、これしかないのだから、こうするしかないといい訳もできるだろう。

私は、これしか持っていない

これは呪いの言葉だ。

たったひとつのピースしか与えられなかったとしても

私には、これがある

と思えたら、魔法が使えることを思い出すのだ。

更に、

何もなくても、私がいる

と思えたら、自由自在なのだ。

 

いついかなるときも、自由自在じゃなくてもいい。

ふと、自分の呪いに飲み込まれそうになったときに立ち止まり

「どうしてこの呪いを私が必要としているのか」ということを受け容れる。

それは、同時に手放すことになる。

受け容れたら、何度も同じ呪いを使えなくなる。

だから、受け容れたくない時に言うセリフ「わからない」。

わかりたくないのは、なぜ?

そこにすべてのヒミツがある。

わかってしまったら、呪いは使えない。

 

ある人は、病気は治ってしまうし、

ある人は、自分が愛されている現実が繰り広げられ、

ある人は、自分の才能が明らかになる。

ある人は、経済的に豊かになる。

 

それは、目標じゃない。

そうだった、ということを思い出すだけ。

 

怖れではなく、愛で生きる

というけれど、怖れを指摘されると「がーん!」となる。

そして、その愛しき「怖れ」は、盾になり、鎧になり、お守りにさえなっている。

 

本当のプロテクションは、自分であることしかない。

愛という一見、ふわふわしたものの正体を自分の中にあることを認めること。

 

どこか、人は、がーん!となりたい。

本来の自分を感じたいから。

「ダメなんだ」じゃなくて「私は私なんだ」という喜びを感じたいからなのだ。

それは、がっかりすることじゃなくて、喜びなのだと感じたいのだ。

 

それを発見する一助になればと、日々、自分の人生で氣づいたことを実践し続ける喜びの中に。

普遍的な光と絶望に見える中にもある光を見続けていく。

それが私の至福。

 

 

 

 

 

 

 

Happy
Happy
0 %
Sad
Sad
0 %
Excited
Excited
0 %
Sleepy
Sleepy
0 %
Angry
Angry
0 %
Surprise
Surprise
0 %
Previous post どちらへ行くべきか
Next post 明日から東北へ

Average Rating

5 Star
0%
4 Star
0%
3 Star
0%
2 Star
0%
1 Star
0%

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください