ハートのチャクラは、バランスの座であり、愛の座。
人間性と神聖性をつないている座でもある。
ここが活性化することで、現実化も、神聖性を使っていくこととわけられなくなっていく。
日本人は特に、ハートのチャクラのバランスが高いレベルで調和できるものを持っており、
それがダイレクトに神の仕事として現実化していく種を持っている。
だからこそ、心を開くことが大切になるのだ。
肉体のパワーだけで現実化することもできるが限界が早い段階でやってくる。
自分のパワーというものは、自分自身の肉体だけで生み出すものではない。
何層にもなる光の身体を持っていることを意識し、全体性の調和のパワーを使っていけるようにするのだ。
日本人の多くに奥ゆかしさという美意識があり、
それは素晴らしいものではあるが、それにより自分自身の美しさに触れることが難しくなる側面もある。
心の中で生まれたものを出さないようにすることもそれである。
すべてをさらけ出すということをするということではなく、
心の中で生まれたものを受容すること。
これができると、現実的に起る様々なことを受け止めることができるようになり、
それは叡智を得ることと同じだ。
理を感じるからこそ、受け止められるのであり、
それが本当に知ることである。
愚かさを知ることと智慧を得ることは同じ。
人が悟りを得るときの象徴的なことでもある。
それは、嘆きの中で、
よろこびの中で、
苦しみの中で、
歓喜の中で、
最も自分を感じたときにそれが訪れる。
最も自分を受け止めた時に、我が消えゆき、全体となる。
自分を感じ尽くしたことが全体を感じるのだ。
自分はすべてなのだ、ということが真実となる。
すべてはひとつ、ということを知るのだ。
他の者になろうとしなくていい。してはならない。
我を明け渡してはならない。
なぜなら、そこには虚無しかない。
無と虚無は似て非なるもの。
無には、すべてがあり、
虚無は怖れのすべてが現れる不自然な有の意識。
我として、人と交わり、学び、その闇の先に現れる光を見よ。
それがひとつであり、すべてである。
自分で在ることの尊さを知るがよい。
自分の限界を知り、受け容れる。
壁にぶつかり、限界を受け容れたとき、新しい扉をひらく。
その扉はいくつも用意されており、その度に永遠なるすべてを感じるであろう。
如何なる時も、常に、共にあることを。
心を開き、人と交わること。
目の前のすべてに神が宿っていることを見よ。
そして我の中にも。
闇と光がひとつになった魂は、多次元的なつながりを持ち、
その瞬間にその奇跡の理を知る。
すべては愛という意志が創造した壮大な夢。
夢を生きよ。
我として生きよ。
それがすべてと共に生きるということだ。