私自身は、妬みと嫉妬に代表されるネガティブエネルギーに強いと言われますが、
最初から強かったわけじゃないところがミソです。
私は、かなり繊細で感受性が強かったので
小さい頃は、身体もとても弱かったです。
思えば、吸い込んだものを吐き出す必要があったのでしょう。
無意識ですが、ネガティブなエネルギーを身体で受け止め、浄化しようとしていたのです。
出す、出す、出す!
言葉はまだ難しかったので、身体に出てしまっていたのだと思います。
何か不穏な空気が流れると、ついついやってしまう浄化。
「空気清浄機みたいな人」と言われたことがありましたが
まさにそんなことを幼少期からやっていたんだと思います。
でも、自分の身体が弱るのはキツい。
感受性はそのままに、身体に来ないようにするために
私が編み出した方法は、前回記事で「おばけよりコワいのは、人間」という教えをした母からの影響でしょうね。
おばけよりコワいという、その人間に怯まないどころか、人間に対して出来る限りの愛を与えていた母。
その母を尊敬しまくっていた私は、影響受けまくりで編み出した技
「オソロシイ環境にすら慣れて精神を鍛える」(笑)
あまりおすすめできません。。。
逃げるのではなく、まるで筋肉を鍛えるように精神を鍛える方に向かいました。
自らドロドロに入っていくんです。
そうするとね、もう自分も傷つくわ、人間が恐ろしくなるわ、大変でした。
でも、身近にそういうもめ事があったため、逃げることはできません。
逃げたくなかったんですね。
逃げるより、そこでなんとか生きていく方法を見つけようとしたんです。
母が辿って来たであろう道を私も進みました。
そのうち、自分が、「大人なのに」とか、「エライ人なのに」とか、
役割などに期待していることに氣づきました。
一皮むけば、みんな未熟な人間。
自分が期待して、勝手にガッカリしていることに氣づくと
受け容れられるようになるんです。
そうすると、年齢とか、ステイタスで、人を見ないようになります。
どんな人でも、素晴らしいところと、愚かなところがある。
そうすると、もしかしたら、それは自分にもあるのではないかと思える。
自分の内側にあるものとして、受け容れ、それ以上、その人のことを追わない。
どう考えても、そんなことしないよ、と思っても、
絶対とは言えない。
人間だもの。
どうして、そうしたんだろう、どうして、そんな気持ちになったのかしら?
そんな興味がわいて来て、その人を理解できれば
更に追いかけずに済みました。
素晴らしさには、感激し、愚かなところはそれはそれとして、
その人の素晴らしいところに目を向けることが増えました。
そうすると、嫌いな人がいなくなっていくんですね。
私は、だからすぐ人が好きになる。
好きになれば、自分はとても楽なんですね。
自分の中から、好き好きエネルギーが湧いてくるので
それで癒されるし、浄化にもなる、
ネガティブエネルギーが来にくくなるしね。
* 人間の多種多様な感情の場面に静かに突っ込んでいき
* それを安らかにするスキルを体得し
* 人を理解することで許せるようになり
* 自分の内側にあるものとして自分を癒し
* 人を好きになることで更に内側からいいエネルギーを生み出す。
これで、繊細さと感受性さを殺さずに、ネガティブなエネルギーや場面に強くなっていきました。
やっぱり憎めないんですよ、どこか。
自分の中にも同様の毒があることを認めると
中和していくみたいに消えていくんです。
それは、外側から見れば、光が強くてネガティブエネルギーを跳ね返す、と見えるかもしれません。
同じことです。
内側の闇を闇と認めると光になります。
もうカウンセラーになるために生きてきたみたいな人生でした。
同時に、私も人間だ、ということをかなり強く学び、自覚しています。
だから、自分の毒を認めることはあまり難しくない。
冷たい部分だってあります。
いい人と思っていただくこともたくさんありますけど、
蜜も毒もある、ふつーの人間です。
嫉妬や妬みの根底を見えるようになると
必要以上にエネルギーを奪われることもありません。
避雷針みたいになるんです。
人を理解することや
自分の中の毒を見つけていくことは、
みなさんにもお勧めします。
自分の成長にも役立ちます。
ところが、私も、もちろん、万全なはずはないんです。
鍛え上げてきたけれども。やっぱり。。。みたいな。
次回は、最新の対処法?!について書きますね。