私はきっと、現実化が得意なんだと思う。前のめり気味なのは、生き急いでいるのかもしれない。小さい頃からながく生きられないと思っていたこともあるかと思うし、長生きに、あまり興味がないこおもある。長く生きるより、濃く生きたい。出来ること、やりたいことは、なんでもしていきたい。
生き急がないで
と、夫に度々言われる。そういうつもりはなかったのだけど、そうなのかも。
願った以上の人生になり、愛して愛されまくって、好きなことを仕事にして、子どもたち、孫たちも抱けて、動物的欲望はほとんど果たしていると思うけど、きっと何か終わりじゃないのね。だって、まだ命あるんだもの。
自分で考え得る以上のことが、私の人生に起こってしまった。夢のよう。
私はまだ欲張りだから、もっとなにかをしたいの。私という存在を生かしたい。
2016年秋にすべてが変わる。
そのとおりに、その年の秋に大きな大きな変化が始まった。結婚してから、親も含めて、他の人がどう言ったとか言わないとか、どうしたとか、しないとか関係ない世界で、自分がどうしたいのか、私はどこに向かっているのか、それだけを頼りにして来た。私の心はどうしたいのかを、それに従って来た。仕事でもそう。無謀なことばかりしてきたけれど、いろんな結果が出た後になって、「やり直すとしたら、どの時点で、どうしたい?」と聞かれても、やり直すことはない。他の選択は無理だもん。そうしたかったのだから。
過去がどうとかじゃなく、今の自分として、過去と切り離せない自分として、新しい選択にエネルギーを注ぎたいのよね。いい想いをしたい訳じゃなくて、気持ちよくやりきりたい。もちろん、結果として、いい想いをするのは、ウェルカム!!素直に受け取る。それも、自分のしたことの責任だもの。
そんな私だけれど、東京に来て2017年秋頃から、何か今までの私を越えたところ、つまり思考や心を越えたところから、ノックされているような気がして、変容の時を感じていた。だけど、ちょっとわかった気がしても、やっぱり何か私の中でハマらない。
それは例えるにインナーチャイルド、ハイヤーセルフ、私につながる存在たちが、私にサプライズを用意してくれていて、それは何か閃きやアイデア、ビジョンのようなもの。私を生かすためのプレゼント。私はそのサプライズをただ待っていればいいのに、せっかちだから、インナーチャイルドたちを迎えに行ってしまうの。まだサプライズの準備が終わらないうちに。だからなかなか受け取れ切れない。
その準備が終わるのは、いつになるかわからない。明日かもしれないし、もしかしたら一年後、5年後、10年後かもしれないし、もっと先かもしれないし、途中でやめちゃうかもしれない。だからといって、勝手に、「もうそれでいいから、充分ステキよ」なんて、迎えに行っちゃダメなの。今は、私は日々を愉しんで、もっと自分を自由にすることを発見して、味わって、そのアテもないサプライズ、向こうからやってくるプレゼントを待っていることが学びたいなの。でも、待ってるなんてダメなの。まだなのかな、まだなのかな、あれかな?これかな?なんていうのはダメなのよ。東日本大地震を機にシフトを感じ、委ねることが学びとなってきたのに。
日々を愉しんで、もっと自分を自由にすることを発見して、味わうことを自分に赦すこと。
そんな有難い学びに私は四苦八苦してるの。何かの為に努力しろと言われれば、思う存分やるのに苦笑
しかも、夫も、それでいいと言うの。私がたのしそうな姿を見ていたいと言う。誰も止めてくれないの笑
止められたいのではなくて、どこかそんな有難いことが、赦されるのだろうか、という気持ちが大きい。誰に赦しを得ようとしているのか。もうこの世に居ない父なのか。いいえ、きっと自分。私を自由にするのも、私なのだから。結局、夫や誰かに止められたって、やるときはやるくせに。。笑
インナーチャイルドたちが、届けてくれるのを私が忘れるくらい自分を愉しみ味わう。
今までの現実化が得意だったことをしっかり認めて、手放す。
はーー!自由って、怖い。
でも、行くしかない。だって、それを求めている自分がいる。強烈に求めている自分がいる。それがあるから、今、生きている。
自由が、私を生かそうといている。
強烈に。
光、音、文字を浴びよう。