日常には沢山の発見と学びがある。どこまで行ってもすべてを知ることはできない。それは無限の愉しみがあるということで、それだから生きているのだと思う毎日。
子どもが小さい時は、家族のやりとりから私が発見したり、学んだことを赤裸々に書いていたけど、子どもたちも成人すると私の気づきではあっても、その深いところまでを勝手に書くのがはばかられるようになった。先日、辻仁成さんが息子さんとのやり取りを書いておられたのだけど(息子さんは頻繁に登場する。そして、とてもステキ)その文章を読んで、かつて私も子どもたちとのやりとりを自由に書いていた頃を懐かしく思い出した。
何かに書いておかなくても、今もなお、彼らとのやりとりの中で発見すること、学ぶことは沢山ある。3人とも大人になり、社会で働き、家族を持つ子もいる。私は、我が子ではあるものの、親として関わるだけじゃなく、ひとりの人間として関わることも愉しんできた。子どもたちより長く生きてきた分、わかることもあるけれど、わかることで見えなくなることもある。それを子どもたちに教えてもらうようなことは沢山ある。ましてや時代は変わり、多様化し、それぞれの世界を生きる彼らから気づかされることは増えたくらいだ。
先日、何の話からか、私自身の自己認識に対して強烈なメッセージを息子からもらった。食らった!というくらいの衝撃だった。ずいぶん前、息子がまだ中学生か高校になった頃、私のブログで「私はどんな人?」ということについて、夫や子どもたちにもコメントをもらう機会があった。
「その時は、お母さんの母性がすごいということを書いたと記憶してる。もちろん、そうで、お母さんは、母性もすごいけど、男性性がすごいんだよね。
一言で言うとお母さんは『オンリーワン』
強烈で、誰もがついていけるわけじゃない。強いからね。とても強い。太陽にそんなに近づけないでしょ。
親父は、太陽からめぐみを受けるにはこうすればいいと教えることができる。」
「私が太陽かどうか、自分ではわからないけど、私はあまり強烈に自分を出すと、誰かが焼け死ぬんじゃないかと無意識で遠慮してしまうことはある。」
「太陽はそんな加減はしなくていいんだよ。ただ存在するだけでいいんだよ。」
息子から褒められた。褒められたんだと思うけど、何だか言葉にできない気持ちが溢れてきて、泣いてしまった。
戸惑いの中で、感謝が溢れるような。
自分の強烈さなんて、かつては知らなかったし、自分は弱いから強くなろうと必死で自分の人生に立ち向かっていっただけ。自分からは逃げられないし、私は私を幸せにしたかった。自分だけは自分を諦めないと必死だったんだと思う。
そうしたら、私の中にあるさまざまな私が出てきて、どんどんひとつになっていったのだろうと思う。そして、まだまだ私はさらに私になっていけるのだと感じて、涙が出た。
彼らは私には見えない私を見てくれる。大きな目で大きな愛で。
私の強烈な強さを一番近くで浴びてきた彼らの言葉は本当に宝物なのだ。