父と母を含めて、この人生で大切な人を見送ることを何度か経験してきた。
この夏も、大切な友人を見送った。
出来る限りのことはやらせてもらえたしやらせてもらえたし、このご時世に告別式にも参加できた。彼女が満足していることも伝わったし、私もやり切った感があった。んだけど、もーーー!いぎなりさみしくて、思っていたより存在感デカくてぽっかり感半端ないんですけど!!
そして、こんなにさみしくてダメージあることに自分で衝撃を受けていたら、夫がそれを察して、いつも優しいのに輪をかけて優しくて、さみしさを上回る愛を彼女からも、夫がからも感じられてぽかーんとじんわりしていました。
セッションが入ると、新しい時間が生まれるような感覚になり、この時期、とても有り難かった。メリメリと私の何かにスイッチが入る。無になる時間なのだ。私がどっかへ行くような、私を深く知るような時間。
私はこれをしている時が私であり、私がなくなる最も濃い瞬間のひとつなんだなぁ。
「私、思っていたより、すごくダメージあったわ」と呟いたら、
「当たり前だよ。そりゃそうだ。オレだって、ショックだったもん」と優しく言った夫。
母を見送った直後は、この仕事を始めて初めてカウンセリングができなくなった。私が私と母だけの時間を過ごす必要があった。それも1ヶ月もすると「最近、変わったことないよねー、なんか新しい刺激が欲しいわー」と言って家族を驚かせた。お母さん亡くなったばかりでしょう、って。思いっきり思うように過ごせて、その年、取り憑かれたように一冊の本を出版した。商業出版をオファーされたのに途中で引き上げて、思い通りの本にした。その年は大きなイベントも含めて、結構大掛かりなことをさせてもらえた。みんなの協力のおかげ。ほんとに。
大切な誰かを見送る。すごく大きなエネルギーをいただけるのだと強く思う。
あなたはひとりじゃないよ。
こんなにたくさんの愛の中で生かされているんだよ。
それは旅立った人もそうなんだ。
そんなことを再び思い出させてもらって充電しているようだ。
日常にある普通の時間も、ドン引きしてしまうほど、優しさに抱かれる。
こんなに愛されていいんだろうか、と。何度も、確認してしまって、何度も笑われる始末。
何でもひとりで乗り越えなければならない。
という観念があったんだなと気づかされる。
「ひとりで乗り越えたことなんてあったっけ?いつだって助けられて支えられてきたじゃない。決断はひとりでしたけれど。」
内側の自分がそう言って、笑ってる。
なんだかいろんなことが有り難くて泣けてくる。
ものすごく嬉しくて。私は私を生きる!そんなシンプルな感覚になれるのがたまらなく愛しいのだ。