「一週間後にすべてが消滅するとしたら」
それを想定すると、自分のやりたいことが明確になる、という一節に触れて、私なら何をしたいだろう、と考えました。
そうしたら、あろうかとか
「何も変わらない。」
という答えが返ってきて、自分に苦笑い。
それは取りも直さず満足度が高いことでもあるけれど、面白くない!!(笑)
東日本大地震を仙台で体験し、その瞬間は、自分の命を守ることに集中していたけど、あの長い長い3分間のうちに大切な人たちの無事を祈らずにはいられなかったことを思い出す。
生き残ってしまって、とても有難いことだと感じていたけれど、
もう一方では、「生き残ってしまった。。。どうしよう。」と何度も何度も思った。
あの当時、夫が会社に来て3年半、やっとその基盤ができつつあり、従業員も雇い、卒業生も登録制で新規のクライアントを任せたり、気軽に学べる機会と卒業生への講師の経験とのことで新規のプロジェクトも広がり始め、更に癒しに特化したエステとヒーリング専門の私たちとしては大がかりな事業を立ち上げようと、正に準備も整ってきた矢先だった。
リセットボタンを押されたような気がした。
すべてがなくなったわけではなかったし、幸いなことに、命に関わるような甚大な被害も受けた人もたくさんいたけれど、それでも、関係者、スタッフも、無事だった。
だけど、あの時、誰もが大なり小なり、ううん、少なからず自分の無力さに打ちのめされたと思う。自然の前に、あまりにも無力だった。
自分ができることの小ささに、想いが大きければ大きいほど、打ちのめされたに違いない。
何もできないもどかしさに
でも、生きている奇跡に
生かされている運命に
抗うことのできない何かを感じていた。
生き残ったということは、まだ何かやることが残っているのだろうと頭では考えるけど、もうそんなことなど、考える余地がなかった。
宮城県沖地震も被害は甚大だったけれど、津波の被害がほぼなかったと思う。原発事故だってなかった。
それが大きな違い。
機能できない地域があまりにも広域だったことは、それだけ日常が遠い。やらなければならないことが気が遠くなるほどある。長い間かけて出来上がったものが一瞬にして壊れたのだから。
未だに日常が戻っていない人たちがまだまだいる。
それを思うと、日常が戻り、新しい創造に着手できることにさえ、戸惑ったものだ。
未だにそういうところがある。
そうは言っても、生き残った以上、日々を大切にしようという意識はある。自分にできることをしようという覚悟もした。自分たちも被災者。私たちが動き出せば、従業員も、スタッフも、関係者も動きが生まれる。お金も必要だけど、それ以上に命が大事。ある意味、あの時期、お金で動けることが驚くほど少なかった。お金ではなく、人の縁で助けられたことばかり。物資も、情報も、無償で、人から与えられた。お金が必要になるのは、命が守られ、日々を生きられるようになってから。それから。
それぞれ状況が違う中、仕事を再開する時期を模索した。当時、東京でもカウンセラーの養成を行っており、クラスは中断。何しろ東京に行くすべがない。もちろん新幹線も、空港もだめ。高速道路も大きな被害があり、東京へのルートが困難。山形まで行き、山形空港から東京入りしようか、はたまた高速道路が開通したら高速バスか?!東京クラスもだけれど、甚大な被害のある地元東北のお客様へのゴーサインは、もっと頭を悩ませた。来られたはいいけれど、余震などいつどうなるかわからない状況が1ヶ月を経過した後でさえあった。4月に大きなステージイベントも企画しており、仙台メディアテークの会場を予約していたが、メディアテークも大きな被害があり、工事の目処も立たないため、すべての予約をキャンセルするという旨の連絡が来た。それはそうだろう。
あれから、今までと全く違う世界が始まった。
渦中にいた私はそう感じた。
それからの私たちは、縁とシンクロニシティに生かされて来た。
もはや自分の力ではなく、大きな何かに動かされているような感覚。
もちろん自分の自由意志は働き、そのセンサーが動くものにだけ反応するような。
どんなに良さげなことだとしても、心がノーならば手を伸ばさない。
イエスなら、どんな状況であろうとも進むしかない。
それがどんなことになろうとも。
えー?!マジか!!!?というようなことも、目の前にパカっ!と道が拓けるようなビジョンが見えたら、頭では茨の道に感じられても、進むしかない。
もう私の魂と大いなる流れに逆らうことはできない。この仕事をしてからはそうだったけれど、より一層そうなってしまった。それは震災後からはっきりとそうなった。
もう無我夢中で駆け抜けて、東京へ来て、昨年秋からまた何かを私に訴えているような気がしていたけれど、それを掴みきれずにいた。でも、掴むとか、そういうことじゃないのだ。何をするとか、しないとか、そんなことじゃないという。
何をやってもいいし、やらなくてもいい。
ただ喜びの中にいる。
その原点にいる。
それだけだという。
ちょっと、困るんだけど(笑)人間なので、営みあるんですよ、と言いたくなる。
でも、一週間後にすべてが消滅するとしても変わらない。目の前のことを粛々と愉しみ、できることをする。
心が動くやりたいことはやり、できないとしても後悔はない。
子どもたちも含めて、出逢った愛する人々のその先を感じたり、見たりできることが今の私の愉しみ!
そもそも、私は長生きしようという気がないのだ。だから、こんな生き方になるのかも。
すぐ死ぬつもりで生きている。だから後悔は少ないし、やりたいことはする。だから生き急ぐと言われるのね。
逆にあと100年生きるとしたら、死なないとしたら、私は大いに欲望が出てくるのかもしれない。
どうだろ?(笑)