昨年は、コツコツと積み重ねてきたもののほとんどを手放した年になりました。
今年は新たなステージを創るということも必要に応じて取り組んできたのだと思うけれど
自分としては、更なる取捨選択をしているような氣がします。
振り返ってみれば、ものすごい量のコンテンツが私のパソコンに入っていて
改めて驚きました。
大きなイベントも毎年行っていましたし、関わってくれた人々のスゴさを改めて感じて感動しています。
そのすごい熱量が注がれていた跡が、あちこちにあるんだもの。
私は、いろんなメッセージを受け取ることができて、
高次の存在からとても愛されていることにとても感謝しているけど、
目の前の人々が変化していくことほど、強烈なことはない、と感じています。
絶望から希望を見つけ、輝いていく人々。
そのリアリティー、真実は、ものすごく強烈に胸を震わせる。
人間のとてつもない底力。
本気になったときの、それは、もうドラマ以上、映画以上なのだもの。
そのために自分ができることは、ちっぽけだけど、全力を注ぎたくなる。
そうせずにはいられなくなる。
その一瞬に込めるからこそ、あとはほとんど追いかけない。
その後の便りは、私の愉しみのひとつであるけれど。
私は、芸術家にとても憧れている。
歌でも、絵でも、作品でも、芸術家の世界観を惜しみなく出し切っているところが
たまらなく憧れる。
「私はこれです!
あとは好きなように感じて」
という出し切り感に嫉妬するほど憧れていたのだけれど、
2009年頃の議事録や関わってくれてたクリエイターたちのチャット録に
「セラピーもアート」「朝水久美子の在り方がアート」というキーワードが出ていて、
なんだか涙が出てきました。
自分の中では、もどかしさを感じるくらい出し切っているとは言い切れないと思っていたけど、
そんなこともないか。
結果ではなく、そのとき、そのとき、あんなに目一杯、出し切っていたじゃないか!
あんなに本気で何事も取り組んで来たじゃないか!
と、思えた。
生ける芸術家でありたい、生き方そのものが芸術。
そんな私の夢は叶っているのかもしれない。
誰の真似でもない、自分を生きる。
破壊と創造。
その真っ只中で。
それでも、愛されて生かされて。
人間ばかり愛してしまって、こんなに愛してくれている神様がスネてしまわないか、
時折、心配して、ごめんなさいしている私に神々たちも微笑む。
自分を愛することがそれなんだと、私も少し神孝行の意味がほんの少しわかってきたようです。