交流分析に出てくるところの「ゲーム」は、心理的かけひきのパターンを言いますが
この「ゲーム」は、特に親密な関係性においてよく行われます。
不毛で、非建設的な結果になることは、わかりきっているのですが、なかなかゲームを止められないのは、
このゲームを編み出した時に味わえたある種の「快感」によるものです。
それを交流分析では「ラケット感情」と言います。
まぁ、その快感というのは、代用感情ですから、本来のものではないのですが
ある種、ねじれた「ああ、よかった」を体感できます。
ねじれているので、
「やっぱり私は愛されないんだ」
のようなことで「ああ、よかった」となってしまっていて、
自分の内側では
「さっぱりよくないよっ!」
と言っていますが、どこか、諦めラインを引いておけば、
「これ以上がっかりすることはない」とか、
「想定の範囲内で済む」など、
自分を守るためのバグだらけの苦策なのです。
それは、信念に基づいているので、なかなか頑固です。
特に、親密な関係性で強く出るので、恋人同士や夫婦などで行われます。
それで成り立っている関係もあり、一旦、成り立つと、それをやり続けている限り関係は壊しません。
ゲームを武器にしている間は、心はとても狭く窮屈で、しかも、常に不安や心配、恐怖が襲ってきます。
想定の範囲内のリスク回避のつもりが、さっぱり安全になっていない。。。
もちろん、本当に望むことは現実化しません。
それって、自分を守ろうとして、相手を変えようとしていることだから。
ゲームをしない、というのは、どういうことかというと、
素直になることです。
ただ、それだけのことです。
それなのに、それができなくて、壊さなくていい関係を壊してしまったり、
相手がどんどん酷いヤツになってしまったり、
自分がみじめになったりします。
素直になること。
それはすごく怖いかもしれません。
でも、親密な関係性なのだから、それをそこでやらなきゃ、どこでやる?ってことですよ。
素直さほど、魅力的で強いものはありません。
素直さに触れたら、その愛しさに、「大事にしたい!」という想いがこみ上げてくるんです。
相手もそうです、もちろん、自分も。
自分を大事にするって、そういうことです。
ねじれた心をほどいていく。
丁寧に丁寧に。
純粋な自分を再び愛せるように。
どこか純粋さをバカにしてしまっていることがあります。
無意識ですが、ゲームが止められない、ゲームを繰り返すというのは、そういうことです。
インナーチャイルドは、どんな気持ちでしょうか。
「どうせこうなるのがお似合い」なんて、純粋な自分に言いますか。
どれだけ自分が健気で愛らしい存在か。
誰が見つけられなくても、自分が見つけなきゃ始まりません。
自分じゃなくて、誰かに見つけてもらおうとしていては、あっという間に一生終わってしまいます。
それがゲームなんです。
不毛でしょ。
自分が見つけたら、相手も見つけてくれるんです。
自分が見つけたら、相手がちゃんと見ててくれると、わかるんです。
ずっと、大事に思われてたことが、わかるんです。
根底の部分で素直になる。
それが親密な関係性の近道です。
近道でさえ、愛の旅は果てしなく続くのでご心配なく☆
どこまでも思っても見なかったような愛を発見し続けられます。
まず、果てしないところはいいから、素直になるところを徹底的にね!
自分が愛しくなるという感覚を掴むだけでも、人生の色がまったく変わります。