「もっと愛情を表現していいんだよ。むしろ、もっと愛を感じたい。」
と息子に言われたことがありました。
「な~んだ~、いいの~?」と思って拍子抜けしてしたことと、たまらなく嬉しかったことを思い出す。
私はもっとワガママに愛していいんだね。
家族にも、だけれど、人にも私は愛情をできるだけ最小限にしようとする傾向がある。
「微小」に設定しても、コレだもん。
「強」にしたら、濃すぎて死ぬんじゃないかと思って。
死ぬは、大げさにしても、
愛されすぎて苦しいんじゃないかと思っていた自分に氣づく。
私は愛されすぎて苦しかったんだなぁ。
厳密に言うと、愛されたのが苦しかったのではなく、
「その大きな愛に応えようとして、充分に応えられない自分が苦しかった。」
のだろうと思う。
だから、いろんなところで必要最小限にしようとしてしまう。
自分の足跡をできるだけ残さないように。
と思ってしまう。
子供たちに対してもそうで、
大人になった今、
できるだけ私の影がない方が自分の人生に集中しやすいのではないかと。
子供たちの人生からフェードアウトじゃないけれど、
引いていこうとしてしまう。
できるだけ、子供たちの人生の邪魔にならないように。
「お母さんはいいから、自分の人生を生きて。」
彼らのためにできる最大限の貢献が私の影を消して行くこと、
みたいに思ってたなぁ。
でも、私は愛しているし、きっともっと愛したい。
だから、愛していることを隠さないことにします。
隠してる訳じゃないけれど、抑えていました(笑)
ああ、なんて幸せなんだろう。
困るほど愛している人がいっぱいいる。
子供たちや夫、家族に限らず
関わっている人たちに対しても
抑えていた。
もっと愛したい。
アッシジの聖フランシスコの書いた祈りです。(一部意訳)
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神よ わたしをあなたの平和の道具として お使い下さい。
憎しみのあるところに 愛の
いさかいのあるところに ゆるしの
疑惑のあるところに 信じる心の
絶望のあるところに 希望の
闇に 光の
悲しみのあるところに よろこびの
種を蒔かせてください。
神よ 偉大なる源よ
慰められることよりは 慰めることを
理解されるよりは 理解することを
愛されるよりは 愛することを
わたしが求めますように。
わたしたちは 与えることの中で受け
ゆるしの中でゆるされ
死の中でこそ 永遠の命に生きているのですから。
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この世に生を受けるときに神と約束してきたこと
そのもので、初めて目にした時にこみ上げるものを抑えられなかったことを思い出す。
抑えてしまうのが不自然だった。
もっと自分を信じて、抑えずにいこう。
ちょっと怖いけれど、もっともっと愛そう。
愛することが怖いのは嫌われることじゃなく
巻き添えにしてしまうこと。
でも、超えていこう。
「先へ行く人は、自分の直観を信じて誰の真似もしないで
我が道を行けばいいんですよ。
そうしてきたじゃないですか。
昔の理論や学問は、それも最初は誰かが作ったもの。
久美子先生は、とらわれずに直観で突き進んでください。
最終的には誰の言うことも聞かないで自分を信じて行動する、
それが久美子先生の本質ですもん。
そうしてください。
新しいものを作り上げてください。」
とことん、人に恵まれている。
愛するあまりに自分より他者を生かしたいという願いが
どこか行き過ぎていた。
まず自分を生かさないとね。
抑えている。
愛したい。
その二つのキーワードは、つながっている。
自分を恐れてはいけないね。
細かいことごちゃごちゃ考えるのはなし!
とにかく愛すればいいのだ。
私が愛したいように。
そうする!
すべてはそこからだった。