悩みのほとんどは人間関係だというが、そのほとんどが親子や夫婦やパートナーなどの関係性が深い人間関係ではないかと思う。
私の両親は既に他界しているが、それでも親子の学びは尽きないと感じている。
年に一回も会うことのない親戚のことでドキッとするのは、きっと親子関係の中の何かに反応しているからだ。
親との関係性の中で、無意識に引き受けた役割に音速でハマってしまうのだ。地球の中のあらゆるものの中で一番早い速度ではないかと思うほどだ。
それに気づけると、自らがかけた魔法が解けるのだが、ハマってしまうと、なんとも表現しがたいモヤっとした不快な感覚も覚える。同時に不自然に張り切ってしまうような感覚もある。まるで自分がやりたい役に立候補するような。そのハイ!!!という手の上げ方が、もはや速すぎて手が消えて見えるくらいな。
きっと、その不快な感覚と張り切る感じを両方感じられるのは、相当自分と仲良くなっているからなのだろう。そんなこと考えもせずに役割に没頭した時期もあった。それがいけないのではないことが、なんとも愛おしく感じるのだ。
親子での学びは尽きない。一番面倒な関係だ。それでいて、悔しいけれど、最も愛おしい関係なのだろう。
私は親でもあるから、子どもとの関係でも、これまた学びがある。
親としての自分が一番自信がない。でも、これ以上限界を超えさせてくれることはないと思う経験をたくさんさせてもらった。自分のちっぽけな限界を突きつけてくる彼ら。最高じゃん!
できるだけ成人するまでに、自分がしてやれることをやりきりたいと思っていたけれど、そんなの生きている限り、なくならなかった。
我が子だけれど、既に成人して私が知らない世界をいっぱい体験している彼ら。教わることも多い。それでも、説教させてくれるようなこともあるから、やっぱり最高!なのよね。きっと、私は説教したいのだ。まだ伝えられることがある、というのは生きる原動力でもあるのだと思う。
「人間としての成長は日々の積み重ね。
感謝を忘れず、謙虚に明るく。
日々を大切に。
ちゃんと見てますよ。」
そんなメッセージを送り、この真意はいつ届くのかな、なんてニンマリしてしまう。放った言葉は、時間と空間を超えて届く。
それは、私自身が両親の子として受け取ることもあるから、心底楽しいのだ。勝手に意味付けしてしまうけど、それが解けたときに届くそれが好きだ。
好き勝手言おう。
愛を込めて。
これ大事。
どんなことも愛で放つ。
それが人間としての最大の学びであり、喜びなのだ。
大切な人との間こそ、しっかり言葉にして、本当に伝えたいことを伝える。
伝えたいことがある。
それがとても尊いのだ。